別ブログもやっております! 50年間の役目を終えた「長岡市厚生会館」! その静かなる有終の日々…
「MOANIN' 長岡市厚生会館」

Monday, July 24, 2006

Alberto

日曜日は住宅を見学するほかに、もう1ヶ所訪れた。神奈川県立近代美術館・葉山館で開かれている 『アルベルト・ジャコメッティ展』 である。


僕は葉山館に来るのは2回目。以前はアニメーション作家のヤン・シュバンクマイヤーの展覧会を見に来た。
そのとき美術館はかなり混んでいた。シュバンクマイヤーの展覧会はすごく面白かったんだけど、来ていたお客さんが全員シュバンクマイヤーのファンでパペット・アニメーションに詳しい人たちだとは、とうてい思えない感じだった。つまり葉山館はリゾート的な魅力がすごく高く、それで集客力があるんだな、とそのとき僕は理解した。(余談の自慢だが、僕はヤン・シュバンクマイヤー本人に仙台で会ったことがある。)

今回も美術館の人出が多いことが予想された。
僕はジャコメッティにはかなり親しんできた。彼の生い立ちや、シュルレアリスムを経た後に独自かつ唯一無二の存在感を持つ彫刻表現に至ったことや、哲学者・矢内原伊作との交流のエピソードなど、全部知っている。京都の大山崎山荘美術館や笠間日動美術館などで実物の作品も何度か見たことがあった。
僕は、自分がジャコメッティのどんなところに魅かれていて、どんな作品をこの目でじっくりと見てみたいか知っていた。今回はいままで僕が経験していない規模のジャコメッティの展示だけど、限られた時間と体力のなかで、人混みにあらがってすみからすみまで気を張って見る必要は無い。見たいものだけじっくり見ればいい。
(とは言え、もし僕が仮に4日間自由に使えたとしたら、4日ともジャコメッティを見に通っただろう。)

あんのじょう美術館は混んでいたが、マナーの悪い人はおらず、静かに落ち着いて見ることができた。
入場してすぐ、彼の初期の作品 『歩く女Ⅰ』 があり、的確な観察力と造形力の才能が良くわかった。
彼が描いた油彩の肖像画があった。額縁にガラスは嵌っておらず、生で見ることが出来た。彼が何日もかけて描いたであろう筆使いと、そしてそういった痕跡のすえに絵の中の人物が獲得した存在感が、まざまざと見てとれた。特に真正面から見たとき、しばらく釘付けになった。
ある展示室の中央に置かれた真っ白な台の上に、余白をたっぷり取って、針金のように小さな人物像が4つ置かれていた。その鋭い有様に戦慄が走るくらいだった。

窓から海が見える展示室に入ったとき、僕はわかった。僕は今回、これを見るんだ。

海を望む窓の前に、ジャコメッティの彫刻が置かれている。目線の高さの台座の上に小指ほどの大きさの女性像が並んでいる。その先には海と、曇った空が見える。
考えてみればベッタベタな展示だ。けれど葉山館の人は、よくぞこの展示をしてくれたものだ。

海と空を背景に、ジャコメッティの小さな小さな人物像を見る。これはまちがいなく、今ここでしかできない経験だ。僕はもう動く必要は無かった。

・・・あんまり見ていたから、僕の眼のなかで、後ろの曇り空と海が、ジャコメッティの像のまわりだけ白く光るようになった。

すべての展示を見終わり、余韻を抱えつつ部屋を出たとき、大げさに言えば生まれ変わったような気分になっていた。僕は今自分がいる世界とあらためてアダプトした感じだ。
美術館からバスに乗って駅に向かい、長岡に帰る電車に乗った。帰りの電車ではたいがい座れた。こっちは新潟より人が多いから、電車の席は全部うまっている。
きっちりうまった席のひとつに僕は座っていた。誰ひとり僕と親しい人がいるわけではなく、たくさんの知らない人に囲まれて僕は運ばれていった。
しかし普通は気に障るそんな状況も、なぜか今日はまったく気にならなかった。僕は確かに自分が生きているのがわかった。そんな今日の感覚を楽しみつつ、長岡までの長い家路についた。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/
exhibitions/2006/giacometti060531/index.html


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I went to The Museum of Modern Art Hayama to watch Alberto GIACOMETTI.

I watched his sculptures, and felt like hearing Alberto's raw voices through his works.

And, I felt like that I had understood WHY I'M LIVING HERE NOW.


...Modinha...

visiting some houses


さきの土曜・日曜と、住宅を見学する旅に行ってきた。「青春18きっぷ」 を利用してのローコスト・トリップである。

雑誌などの情報から、「街に開かれている」 と思われる住宅を選んで訪ねた。訪れたのは次の4つの住宅。(訪れた順)
佐藤光彦:設計 『西所沢の住宅』
アトリエ・ワン:設計 『ミニ・ハウス』 (練馬)
手塚貴晴+手塚由比:設計 『屋根の家』 (秦野)
アトリエ・ワン:設計 『アニ・ハウス』 (茅ヶ崎)

個人住宅を見るわけだから、ふるまいは常識の範囲を守る。立ち止まってしげしげと観察したり大っぴらにスケッチしたりカメラを向けたりするのは控える。あくまで通行人として眺めるだけである。
しかし現地に足を運んでみて、初めて本当にわかったことがあり、大きな収穫だった。

それはどういうことかというと、雑誌で建築家が自作を解説している文章を読んだり、スタイリッシュにトリミングされた写真を見ていると、「家と街とがラディカルに結び付けられているのか」 とか、「周囲に自己主張しまくっている存在感なのか」 と思ってしまう。
ところが現地を歩き回ってみると、訪れた住宅はどれも、周辺のコンテクストをかなり色濃く反映していて、決してまったく異質な存在ではなかった。宇宙船のごとくに啓蒙的な住宅が突然降り立ったわけではなく、周囲によく根ざしていた。

『西所沢の住宅』 (http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/jt/jt2001/jt08/work/01/main.html) は、2003年度JIA新人賞を受賞していて、そのときの審査コメントを読むと、ものすごく過激な住宅のように思えた。(http://www.jia.or.jp/member/award/newface/2003/kouhyou.htm)
しかし、細い路地が入り組んだ密集住宅地である現地の家々はどれもみな、周囲との関係がすごく近くて、そこでは 『西所沢の住宅』 のファサードの空地の取り方と開口部がとりたてて異常なものに思えなかった。木造モルタル+リシン仕上の外壁も周囲によく見られるもので、これもコンテクストを反映したもののように感じた。

『ミニ・ハウス』 (http://www.bow-wow.jp/profile/works.html) は、塚本由晴さんの解説文を読んだり配置図を読み取ったりすると、建物を中央に配置することで、周囲との関係を風通し良いものにすることをねらっているのかな、と僕は理解していた。
実際に行くと、現地の住宅の敷地はどれも一様に狭く、『ミニ・ハウス』 に取られた空地も小さい面積のもので、植栽が大きく育っていることも加わって、周りの住宅との差異をそれほど感じない。前面道路に対しては、開口部が無くわりと防御的で、また2層目のボリューム (雑誌の写真でミニ・クーパーを停めている上部のところ) のレベルでは接道している印象で、周囲の住宅よりとびぬけた開放感があるわけでは無かった。

『屋根の家』 (http://www.tezuka-arch.com/japanese/works/roof/01.html) は、事前情報の段階から、僕にとってかなり好ましい住宅だった。屋根の使い方は文句無く発明的なアイディアだし、屋根の下の住居部分のプランニングも、各方向に視線を抜けさせる気持良さが巧みだと思う。
現地は斜面に造成された団地で、街の人達によって良い環境の住宅地が形成されていた。各戸の敷地は比較的広く、それぞれが眺望を何らかの形で意識して建てられている印象だった。実際に見た 『屋根の家』 は、周辺コンテクストが持っている建物のボリューム感・庭の取りかた・眺望に対する構えを素直に引き継いで、それらを健全に育てて突き抜けさせた住宅のように思えた。

『アニ・ハウス』 は 『ミニ・ハウス』 と同様の配置のされ方である。前面に大きな開口部があるので、周辺との親和性が 『ミニ・ハウス』 より高い。建物のボリュームはだいたい 『ミニ・ハウス』 と同じだが、敷地が広いので、取られた空地はより効果的に思えた。
だが周囲の住宅にも、『アニ・ハウス』 と同じくらいの庭を抱える余裕があり、『アニ・ハウス』 はその住宅地の良い性格を助長しているように思えた。周囲に異を唱えるのではなく積極的に評価して、それを意識して体現したようなすがすがしさがあった。その 「すがすがしさ」 の実現のために、外壁の素材としてガルバリウム鋼板スパンドレルが採用されたように見てとれた。

どの住宅も、建築家の頭の中だけで生み出されたわけではなく、例外なく周辺環境のコンテクストから出発して設計されたものだった。この本当にあたりまえのことが、実物ではなく建築メディアだけ見ていた僕にはわからなかった。僕の中でイメージが肥大しすぎていたことが良くわかった。
雑誌に載るようなすぐれた住宅も、実のところはすごく素直な存在だった。
つまり、もしプロジェクトに行き詰まったら、僕の敷地と、そこから僕が素直に感じる感覚にたち帰ること。それに従うのがよい。


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I went to watch my favorite houses last weekend.
Those real and actual houses taught me so many things never being understood within limited images on the architectural medias.


...Modinha...