別ブログもやっております! 50年間の役目を終えた「長岡市厚生会館」! その静かなる有終の日々…
「MOANIN' 長岡市厚生会館」

Sunday, May 21, 2006

Kazuo SHINOHARA and Masayoshi NAKAMURA

日曜日の朝、宿を出て、小田急線に乗る。
バスに乗り換えて、川崎市細山にある 『中村正義の美術館』 に行く。

中村正義は1924年に生まれ、1976年に癌のため亡くなった日本画家だ。現在、ご自宅だった場所が 『中村正義の美術館』 として、ご遺族により運営されている。

中村さんはいちおう日本画家にカテゴライズされているが、その作風は日本画という概念をはるかに超えて多岐に渡っている。また、生涯を通じてたくさんの自画像を描き続けたことでも知られている。
今回、『100枚の顔 展』 として、およそ100点の自画像が一堂に展示されている。

美術館の建物/中村さんの自宅は、篠原一男が1971年に設計した。
建築の世界では、篠原さんの作品として 『直方体の森』 という名前が付けられている。

『中村正義の美術館』 は、孤高のカリスマ建築家・篠原一男 (1925- ) の住宅空間を実際に体験できる数少ない場所である。そしてその空間に中村さんの自画像が100枚も展示されているとあって、僕はすごく期待して訪れた。
ヤンセンや武満の作品で味わったような感覚を、また体験できるのだろうか。


僕がこの美術館に来るのは、3度目か4度目だ。まず初めに訪れて体験をした後、建設当時の篠原さんの言説を読んだり図面を集めたりして、自分の勉強のために模型を作ってみた。

この建築の一番の特徴は、エントランスホールから奥の居間までがまったくの一直線上にあること、そのふたつが巾90cmの細い廊下でつながれていること、そしてその3つの空間がすべて2層分の高さを持つ吹き抜けであることだ。


とても劇的なんだけど、例えば茶室のにじり口や演劇の舞台装置のように、なにかの意味や視覚的効果を演出しようという意図とは、実はまったく無縁の空間である。
それは篠原さんの 「抽象」へと向かう強い志向から来ていると思うんだけど、この空間は個人住宅なのに、まるで古代の神殿のようなきびしさがある。

模型を作ったうえで3度か4度来てみて、今回ようやくスケールや空間の感じの理解が深まってきた。
奥の部屋の2層分の大きな壁には、中村さんの自画像がびっしりと飾られていた。
中村さんのご家族に話を聞くと、このようなかたちで自画像だけを100点も展示するのは初めてだそうだ。
高い抽象性で組み立てられた空間に、自画像だけが架けられている。
もう本当にきびしい神殿か寺院にでも迷い込んだようで、言葉も無かった。

椅子に腰を降ろしてスケッチをした。下手なスケッチだけど、情感や情念のようなものを記録しようとつとめて描いた。
上は僕あてに届いた今回の展覧会の案内をスキャンしたもの。この空間にこれらの絵が飾られている様子を想像してみてください。


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I went to The Museum of Masayoshi NAKAMURA. That was designed by Kazuo SHINOHARA as Masayoshi's residence.

I was soaked with those two Great Person's strong willpower.

I thought, "Now I have to go back to Nagaoka and fight against myself."


...Modinha...

Saturday, May 20, 2006

TAKEMITSU

北浦和で一泊して、土曜の朝に東京に向かった。

まず神田神保町かいわいへ行き、建築雑誌のバックナンバーなどを買った。
天気予報は雨がちだったが、実際の天気はすごく良く、強い日差しで汗をかいてしまう。磯崎さんの 『お茶の水スクウェア』 が青空に屹立している。まるでCG表現みたいに出来すぎた絵だ。


その後、渋谷に向かい、渋谷電力館に行く。『11人の著名建築家によるプロポーザルコンペ』 の結果がパネルと模型で展示されているのを見る。集合住宅の計画のコンペだ。
一等の長谷川逸子案は、30戸ちかい住居を分棟させて、敷地に分散配置している。西沢立衛の 『森山邸』 を連想する。この種の分棟分散タイプは、これからコンペや学生の設計案などで、流行・消費されていくんだろうな。

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/free/NEWS/20060519/129563/

渋谷から地下鉄で乃木坂へ行く。TOTOの 「ギャラリー間」 で 『手塚貴晴+手塚由比展』 が開かれている。
最新計画案の 『ふじようちえん』 の模型が展示されていた。この模型はすごく大きく、部屋いっぱいに展示されていた。1/10というスケールなので、屋上のウッドデッキの張り継ぎの位置など、細部の表現もかなり意識されている。
かたわらの壁面には 『ふじようちえん』 の小さいスタディ模型がたくさん展示されている。初期イメージを探るためらしい、ざっくりとした模型だ。数えてみたら63個あった。

ギャラリーの中庭は、コールテン鋼製の 『キョロロ』 の模型を使ったインスタレーション。上のフロアは、さまざまな計画案のスタディ模型のおびただしい山だった。今日は会期の最終日で、ギャラリーは建築学生でいっぱいだった。


ギャラ間をあとにして、初台の東京オペラシティに向かった。アートギャラリーで 『武満徹 Visions in Time 展』 が開かれている。
代々木上原で乗り換えるとき、天気予報どおりに雨が降ってきた。それもひどい雨だ。

オペラシティに着く。ところどころに見られるコンクリート打放しの柱は杉板型枠、アートギャラリーの内壁はクロス貼り+EP仕上げ、どちらも設計者の柳澤孝彦さんのデザイン・ボキャブラリーだ。杉板型枠の幅がかなり広い割りなので、あまり繊細な印象は感じない。
着いたのはもう夕方で日が暮れた後だった。アプローチの照明計画が見事だった。エスカレーターホール全体の明りをしぼり、エスカレーターの手すり子部分にしこまれた照明が浮き上がる。そしてその行く先に光って見える、オペラシティのロゴマーク。


『武満徹展』 の会場に入った。現代音楽を代表する作曲家・武満徹が亡くなって今年で10年だ。
『ノヴェンバー・ステップス』 の直筆スコアが展示されていた。曲を演奏するための指示の集積である楽譜だけど、グラフィック表現としてとらえてみても独特の魅力がある。すぐれた建築図面と近い種類の魅力だ。

彼が創作イメージを触発された芸術作品が展示されたコーナーがあった。キャプションには 「武満徹ほど、他の芸術家と『交感』した芸術家は無い」 と書かれていた。

オディロン・ルドンの油彩画 『眼を閉じて』 があった。眼を閉じた人物の正面の顔の、首から上の部分が描かれているが、画面の下方に地平線のような線がある。
巨大な頭部が地面から顔を出しているようにも見える。すごく不思議な絵だ。

絵の前にはベンチが設置してあり、その上にヘッドフォンが置いてある。武満がルドンの絵から触発されて作曲したピアノ曲 『閉じた眼-瀧口修造の追憶に』 が聴けるようになっている。
ベンチに腰をおろし、ヘッドフォンを耳にはめた。武満のピアノ曲が流れる。目の前にはルドンの絵が架かる壁がある。
展覧会には何組かの客が来ている。皆さんだいたいヘッドフォンをスルーしていくか、ちょっとだけ耳に当てた後、連れと一緒に次に進んでいく。つかの間、展示室には僕と曲と絵だけになる。
僕はたいがいひとりで行動している。ひとりというのはやりきれなく脆く弱いものだが、ときどきものすごく豊穣な時間が来ることがある。武満の曲とルドンの絵にひたされて、僕は考え事をした。

僕は建築に親しむより前に、美術や音楽に親しんだ。長岡から仙台に出て最初の大学に入り、建築学科に籍を置くようになったけど、学校なんか行かなかった。
武満の曲も昔よく聞いた。マンドリン・オーケストラに入って馬鹿みたいに楽器を練習したり、宮城県美術館の展示が入れ替わるたびに通いつめて絵を見たりして過ごした。そのうち大学を追い出された。

僕は折にふれ、芸術作品に心を動かされる体験を繰り返してきた。その何ともあやしいエネルギーが、今の僕を作り上げてきた。最近忘れがちだったけど、武満とルドンによってその感覚をひしひしと思い出した。

でも僕は今に到るまで、いまだに建築の世界にとどまっている。それは単に僕の性格のせいだ。いちど始めたことはなかなかやめない性格であるだけだ。とくに建築の才能があるわけではないし、もとより絵や音楽の才能に恵まれたわけでもない。本当になにかの才能があれば、もうすでになにかを成し遂げているだろう。
じゃあなぜ建築を続けているのか。なにか僕が惹かれている部分があるはずだ。

長岡に戻ってきた頃から、意識してたくさんの建築を訪ね歩いてきた。音楽や絵に感動するのと同じように建築空間に感動したことも何度かあった。
でも、建築イコール 「美」 ではないと思う。審美的な見地からだけ建築をとらえるのは間違っている。建築は何よりもまず社会的な存在である。社会と切り離されたところで建築単体がいくら美しかったとしても、僕はあまり意味を感じない。
僕にとって建築は、社会と自分を知るためのツールなんじゃないだろうかと思う。建築を考えることで、芸術のあやしいエネルギーにつちかわれてきた僕が、社会に自分をどう表明していくか、その立ち位置がさぐれるような気がする。

ツール:道具ととらえたのには意味があって、僕はいままでに、先輩建築家たちが、どのようにして最初の発想を基本設計段階までディベロップしていったか、その具体的な手段をいくつか知ることができた。さきほど見てきた手塚夫妻の63個のスタディ模型も、その具体的な手段のひとつだ。ツールとしてとらえたとき、建築は僕がやろうとしていることにおいて非常に有力に働くだろうと思われるのだ。

建築は個人的な衝動・動機から出発するけれども、具合的な手続きを経て、最後には社会において具体物として建つ。僕はそこに惹かれている。これをあらためて認識した。
どの段階も揺るがせにできないし、各段階で何をどうしたらいいか、僕は知っている。僕は建築を自分の道具として使いたおそうと思った。

……さてさて。すごく青臭くなってしまった。もうこの段階でこれ以上頭を使う必要はないだろう。
『武満徹展』では、彼のアトリエの様子も再現展示されていた。昨日のヤンセンのアトリエとは対照的に、すごく几帳面に整理されていた。

前回ログと同様に、武満のアトリエの様子を紹介したいと思います。上の写真で僕が持っているのは、『芸術新潮』 2006年5月号、記事の写真は広瀬達郎氏撮影。武満の机の上に、鉛筆と消しゴムが長さの順にそろえて並べられていたのが印象的だった。


http://www.operacity.jp/ag/

このまま長岡に帰ってもよかったけど、芸術と建築を同時に考えることができる場所が、実はもう一ヶ所こちらにある。今日は東京に泊まり、明日そこを訪ねることにした。

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I went to Tokyo Opera City Art Gallery. The exhibition was "TORU TAKEMITSU : Visions in Time".
Sometimes I had listened to his music before.

With listening his music at Opera City, I thought about the beauty and the architecture for me, as like I had done at JANSSEN RETOROSPECTIVE.


...Modinha...

Friday, May 19, 2006

Horst JANSSEN

金曜日から小旅行に出た。
長岡から鈍行を乗り継いで、埼玉の北浦和駅に着いた。
駅からほど近い都市公園に、埼玉県立近代美術館がある。黒川紀章設計のフレーミーな建物では、『ホルスト・ヤンセン展』 が開かれていた。

ホルスト・ヤンセン (1929-1995) は、「デューラー以来の素描家」 と呼ばれたドイツの画家で、凄まじいまでの表現力の持ち主だ。
どんな感じの絵を描くか、興味がある人は美術館へのリンクで確かめてみてください。

http://www.momas.jp/

葛飾北斎をはじめとする日本画に深く傾倒し、また自身の作品にたびたび和紙を使った。ヤンセンが使った和紙は、新潟県小国町を中心に活動している和紙作家・坂本直昭さんが漉いていた。小国町でヤンセンの作品展が開かれたこともあり、僕は何度かヤンセンの作品を目にしていた。

今回の埼玉の展覧会で僕が一番印象的だったのは、「ヤンセンのアトリエ」 と題された一画の展示だ。そこには花や静物を描いた作品が展示されていた。
彼のアトリエは雑然をきわめ、画材や絵のモチーフで埋め尽くされていたらしい。

『エルンスト・ユンガーのために』 という静物画は、小鳥の死骸や骨が机に置かれていて、それを真上から見下ろした構図で描かれている。鉛筆の線描に精妙に色が塗り加えられている。透明水彩のドライブラッシュかと思ったら、画材は色鉛筆とパステルだった。

僕はこれを見て、10年ほど前に見たある絵のことを思い出した。アンドリュー・ワイエスの 『追越し車線』 という絵だ。
アメリカのハイウェイの隅っこで、リスが轢かれて死んでいる。ワイエスはその様子を水彩画に描き、仕上げに道路で死んでいるリスの血を、絵のリスの傷口になすりつけた。当時、僕は絵を見てそのエピソードを知って 「ふーん」 と感心した。
でもそれはヤンセンの絵と比べてみると、どうなんだろうか。

ヤンセンの絵とワイエスの絵は、小動物の死骸というモチーフは共通だし、描写力は二人とも群を抜いている。
でもヤンセンの絵は、ワイエスの絵から感じられる物語性とか感傷とかとはまったく関係なく、対象がただ 「ものそのもの」 としてとらえられ、生々しくこちらに迫ってくる。今回、僕はその 「ものそのもの」 という感覚に強く魅かれた。

ヤンセンは淋しがり屋で破滅型のトラブルメイカーで、絵の着想を得るまでは酒場とかでグダグダと過ごしたが、ひとたび着想が浮かぶと、アトリエにこもって電話線を引き抜き、鬼気迫る絵を描きあげたそうだ。

ミュージアムショップでヤンセン本人を写した写真集を買ってきた。雑然としたアトリエの様子も写っている。
そのままスキャンしてこのブログに載せたりするのは問題がありそうなので…
彼のアトリエの様子はこんな感じです。
Nomi BAUMGARTL : "HORST JANSSEN" より

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With holding my dissatisfaction, I went to Saitama, to watch "HORST JANSSEN RETROSPECTIVE" at Museum of Modern Art Saitama.

I was really shocked by JANSSEN's work.
I could not stop to consider what I really should do.


...Modinha...

Saturday, May 06, 2006

bicycle

きょうは僕の黄色い自転車について書こうと思います。
前回のログでは、20km(推定)の道程にわたって僕をサポートしてくれました。

僕はこれに乗り始めて3年目に入ったところだ。
「ビアンキ」 社の 「アリカント」 というモデルだ。でもこれ本当はレディースモデルなんだよね。

ビアンキ アリカント
僕は自転車に乗るならぜったい、黄色にしようと思っていた。
宮内のロードバイク専門店 「Fin's」 に行って、ちょっと型落ちのクロスバイクを探していたら、こいつが見つかった。
他の男性用サイズのやつをすすめられたりもしたけど、それよりもこれの方がきれいな黄色だったこともあり、結局これを選んだ。

乗っていて 「もう一段高いギアがあればいいな」 と思うときもあるけど、ふだん乗るにはすごく便利だ。軽くて乗りやすい。
泥除けとチェーンガードが付いてるからいつでも気軽に乗れるし、荷台にはカバンや買い物袋が挟み込めるようになっていて、すごく重宝する。
いままでの最長不倒距離は、六日町まで往復した110kmくらいだろうか。

ところで、なんで自転車は黄色がいいかと言うと、東京日本橋の設計事務所でアルバイトをしていたとき、事務所の黄色い自転車を借りてよく乗っていたからだ。
東京の街を自転車で走るのは便利だった。そしてすごく楽しかった。
そのとき自分撮りした写真です。


昼間は銀座の伊東屋まで画材の買出しによく使った。夜、事務所の人たちが帰り、僕ひとりになると、自転車にまたがって東京探検に出かけた。
上野くらいはすぐだったし、丸の内や有楽町にもよく行った。渋谷くらいまで行ったような行かなかったような… とにかく山手線の右側半分くらいの範囲は行動範囲だった。

そのときの楽しかった思い出があるので、乗るなら黄色い自転車以外考えられなくなってしまったのです。

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My bicycle is colored yellow. I love to ride it.

I like yellow bicycles.
Because 4 years ago when I had been Tokyo for 2 weeks, I borrowed a yellow bicycle and rode it around over Tokyo.
It was so fun, and I took a fancy to yellow bikes.


...Modinha...